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東日本大震災 釜石レポート

港には巨大な船が打ち上げられたまま
学校の校庭は瓦礫の山と化す釜石
                       レポーター 連盟 宇田 弘

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DSC_0309.JPG DSC_0402.JPG DSC_0336.JPG青森で開催された全国大会の翌日の8月3日、組織活性化委員会の中野副委員長、日専連東北地区連合会の小野寺事務局長、日専連北九州の清水さんとともに日専連釜石の和田雅己理事に会いに釜石を訪れました。

和田さんは、商店街の繁栄は商店街振興組合の枠組みだけでは無理であるということで、8年前にまちづくりのNPO(@リアスNPOサポートせんたー)を立ち上げて、行政や市民を巻き込んだまちづくり運動を行っており、そこの専務理事を務めています。

そんな中での大震災。すべてが失われ、釜石のまちづくりはマイナスからのスタートとなってしまいました。

1000食の炊き出し
4カ月の避難所生活
和田さんは震災があった日は、近くの病院でまちづくりのための研修会に参加されていていました。奥さまはお店にいて、すぐにアパートに帰って大学1年の息子さんと屋上に避難。和田さんは奥さまと入れ違いで店に戻り、津波の心配があったので商品をテーブルなどの上にあげていました。その後、NPOで学童クラブを運営していたので、子どもたちが心配になり、そちらに向かったそうです。子どもたちは避難して一安心したところに"ドーッ"と津波が襲ってきました。

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和田さんは近くにあるお寺に非難されましたが、奥さまと大学1年の息子さんが心配で、夜になって瓦礫の中を懐中電灯で照らしてアパートに行き、そこでやっと安否が確認できました。また、大学4年の娘さんは仙台にいて1週間が過ぎて、やっと安否が確認できたそうです。

 

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お寺には200名くらいが避難して、備蓄米があったのでみんなで炊き出しをして、避難所に移るまでしばらくお寺で生活していました。主に雑炊など作り、多いときは1000食分の炊き出しをしたそうです。

もちろん、電気、ガス、水道のライフラインは途切れていて、水は裏山にある湧き水を汲み、火は瓦礫がたくさんあるので、木片などを拾って燃やし、車のガソリンも抜いて使おうとしたそうですが、水が入って使えなかったそうです。生きるため、拾ったものでも食べて飢えをしのいだと言います。

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和田さんが住んでいたアパートは、大家さんが亡くなり取り壊すことになりましたので、やむなく和田さん一家は避難所生活を強いられました。奥さまは、しばらくは靴下をはいたまま寝ていたそうです。また、お風呂は自衛隊の仮説風呂に二週間してやっと入れたと言います。避難所生活は4カ月間におよび、7月にここに戻ってきたばかりです。


避難所生活はプライベートがまったくありません。はじめの1カ月は生きるので精一杯で、次の1カ月は避難生活でただ単に時が過ぎ、3カ月目からやることがないので、奥さまと一緒に黙々と店の片づけを始めたと和田さんは振り返ります。しかし、店はあまりにもひどい状況で、機材もなく、手作業での片づけは進まず、むなしさをこらえて行ったと語ってくれました。


和田さんの奥さまに話を伺うと、アパートの屋上に息子と2人で逃げ、屋上から車や瓦礫、そして人が流されてくるのを目のあたりにすると、"死ぬのかな"と思われたそうです。また、ご主人も仙台にいる娘さんも亡くなって生きてはいないと思ったそうです。そして生かされたけど、避難所での生活は苦しく、生きるのも辛かったと話されました。

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店内には津波で流された
車が二台、そして遺体も
和田さんのお店(田丸スポーツ)があるこの商店街は、2メートルの津波に襲われました。店は1階がグチャグチャで津波で流されてきた車2台が店の中に入り、5月の中ごろになってやっと撤去され、その時に遺体も1体発見されたそうです。


このあたりは、1キロにわたって3つの商店街があり、商店が約120店舗あります。今再開しているのは5~6店舗しかありません。
また、被災していない地区の方たちからは、「この商店街は津波が来るので怖くて来られない」と聞かされたときは心が折れそうになったと和田さんは話していました。

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どこまでも続く瓦礫の広野
無惨に打ち上げられた船
お店でお話を伺ってから和田さんに車を運転していただき、被災現場を見に行きました。車中で和田さんが指がなかったり、手首のない死体が多くあったと言いました。それは、指輪や時計をむしり取られたためと言います。


港に近くなるほど状況は悲惨で、瓦礫が残っているところもまだ多くありました。また、何もかも流されコンクリートの建物だけが残っている"瓦礫の広野"。津波にのまれた学校の校庭は、瓦礫の集積所になっており、まさに"瓦礫の山"と化していました。震災当時は死体が電線にぶら下がっていたところもあったと言います。港に着くと、とこには巨大な船が陸に上げられているのを目のあたりにし、「こんなことはあり得るのか!」という強い衝撃を受けました。

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宮古のときもそうでしたが、支援物資がありすぎて震災を逃れた商店街ではモノが売れなくて困っているそうです。また、震災後はやじうまが来て、和田さんの店の前で写真を撮る方もいたと言います。でも、和田さんは、何でもいいからこの悲惨な状況を多くの方に伝えて、この現実を見てほししいと言います。

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この大震災では多くの方の命が奪われました。この大災害をわれわれは忘れてはいけません。今後のまちづくりでは、この大震災の教訓が生かされ、釜石をはじめ、被災された地域では安全・安心で賑わいあふれる街として復活することを願ってやみません。


和田さん、そして和田さんの奥さまは、われわれに明るく元気に対応してくださいました。また、ご自身も被災者なのに釜石のまちづくりの中心メンバーになられて忙しい日々を送られています。われわれが訪れた日も、夕方からまちづくりの会合があり参加されるとのことでした。


和田さんをはじめ、震災された方々の一日も早い復興を心より願っております。

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