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東日本大震災から4年が経過した03月12日UP

あの東日本大震災から4年が経過した

この出来事は決して忘れてはいけない

 

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平成23年3月11日の午後2時46分、あの東日本大震災が起こった。
死者1万5891名、行方不明者2584名、震災関連死3200名。2万人を超える尊い命が奪われた。そして、いまだ家に戻れずに仮設住宅などで暮らす方が22万9000名いる。


東京の日専連本部ビルも大きく揺れ、蛍光灯も一部落下し、移動棚が倒れた。ビルの外壁も一部剥離して落下したが、幸いけが人は出なかった。日専連ビルの斜め向かいの建設中のビルのクレーンが倒れるのではと思うほど大きく揺れた。

JRをはじめ交通機関はマヒし、道路は車で大渋滞して徒歩で家路に向かう人々の長い列ができた。そして、テレビからは今までに見たことのない映像が映し出され、呆然とした。


さらに、これまで安全といわれていた原発が事故を起こした。廃炉まで40年かかると言われ、先の見えない作業が延々と行われる。

日専連本部では震災発生直後に緊急対策本部を設置し、組合員の安否確認はじめ、情報収集に努めた。一刻も早く被災地を見舞たかったが、自衛隊の救出活動の妨げとなるため、はやる気持ちを抑えた。

そして、震災から3週間が経過した4月5日、ついに岡本理事長(当時)、蝦名副理事長、清水専務らが日専連青森の職員が運転する乗用車に乗り、そしてトラックに支援物資を満載して被災地である宮古、釜石、仙台、南三陸を見舞った。走行距離は1100キロ。すれ違う車は自衛隊の車両ばかりで、被災地は瓦礫の山が積み上がり、特に石巻、南三陸は爆弾が落とされたような悲惨な状況であった。


その後、宮古、釜石、気仙沼、茨城県大洗町、南三陸などを取材した。また、各会においても被災地を支援するための募金などが行われた。
3月11日の出来事は、日本人として決して忘れてはいけない。そして、今も悲しみにつつまれている方々がいることを...。

これまで取材したことを、写真とともに振り返る

宮古(平成23年4月)

4月4日に岡本理事長(当時)はじめ、役員が被災地を見舞う。

初めに見舞ったのが宮古。宮古の沿岸部は最大9メートルの津波が襲い、津波は山の斜面を駆け上り、最大到達地点は40メートルにも及んだ。

市内中心部は瓦礫の撤去が進むが、粉じんがのどや目を襲う。

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日専連宮古の事務所は、2階まで津波が襲った。モノクロの写真は、震災当時の日専連宮古周辺の写真で、九州の新聞社が撮影したもの。わずか3週間足らずでここまで復旧した。

 

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宮古から釜石に移動するが、見渡す限り瓦礫ばかりが続く。

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釜石の状況(平成23年4月)

釜石の中心部は、2メートルもの津波が襲い、宮古よりも被害が大きい。瓦礫もまだ多く残っており、復旧も遅れ気味だ。

 

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日専連釜石の事務所で義捐金をお渡しした。事務所は手が付けられない状況。残念だが、日専連釜石は解散してしまった。

 

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石巻(平成23年4月)

石巻市の中心部を高台にある日和山公園から見た光景。言葉が出ない。

 

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南三陸(平成23年4月)

石巻もそうだが、まるで爆弾が落とされたような光景だ。

 

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宮古あきんど復興市(平成23年6月11日)

震災から2週間後に、日専連宮古の佐香理事長(当時)に電話したところ、無事であることが確認できた。そして、佐香副理事長の次の言葉に驚愕した。

「毎日が泥かきだけど、うつむいてばかりいられないよ。3カ月後に復興市をやるんだ。今、その打ち合わせに行くところだ」

なんでまだ2週間足らずで、大変なときにそんなことを思いついたのかを伺うと、

「日専連宮古の常務の衣料品店が、震災翌日に店を開けて、少し泥で汚れた服や下着を水で洗って安価で売り出したところ、困っている人の喜ぶ姿を見て元気をもらった」という。

その様子がこれだ。震災翌日のこと。

 

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商人が力強く立ち上がり、震災3カ月足らずで開催した「あきんど復興市」。6月11日・12日で開催され、雨模様にもかかわらず8000以上が訪れた。

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第2回 宮古あきんど復興市(平成23年10月11日・12日)

第1回目の復興市から4か月後、震災から7か月後の10月11日・12日で、「第2回 宮古あきんど復興市」が開催され、前回を上回る1万2000名もの来場者があった。すべて地元の方々による手作り。

佐香副理事長(当時)は、「自分たちで汗をかくことで、結束が生まれるんだ」という。

第1回目もそうだが、子どもたちが元気に踊る姿や笑顔が見られるが、この中にはお母さんやお父さん、兄弟をなくされた子もいると思うと、写真を撮りながら目頭が熱くなった。

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地元の大学生がたこ焼きを焼いて、小学生くらいの子どもが運ぶ。また、七輪でサンマを焼いている光景は圧巻。サンマは、無料でふるまわれた。

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釜石の状況(平成23年8月)

震災から5か月後の8月に釜石を訪問した。ここの商店街は、海から1キロほどのところにあり、2メートルの津波に襲われた。毎日たくさんのご遺体が発見されたそう。写真の和田さんのお店にも、津波で流された車が2台入り、2名のご遺体が発見された。

当初、和田さんはお寺に避難し、電気、ガス、水道が遮断されている中、湧水で炊き出しを行い、火は車のガソリンを抜いて瓦礫で流れてきた木を燃やしたといいます。

そして和田さん家族は、プライバシーのない避難所生活を4カ月間強いられた。夜、店に戻ると物取りの姿も見たといいます。

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釜石は、消防署も被災し、海岸には貨物船が打ち上げられていた。

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気仙沼・南三陸の状況(平成24年5月)

震災の翌年、平成24年5月に気仙沼と南三陸を訪れた。

気仙沼では、湾から600メートルほどのところに、巨大な貨物船が流されていた。多くの建物、そして多くの尊い人命が奪われたことだろう。ありえない光景である。

また、気仙沼では港近くの重油タンクに火が引火して、4日間もの間、赤い炎と黒い煙に包まれ、まさに地獄絵だったという。

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南三陸の防災センターでは、避難を最後まで呼びかけた、秋には結婚予定の24歳の女性をはじめ、42名の尊い人命が奪われた。

また、病院は4階まで津波が襲い、ベットごと流された方もおり、107名の患者さんのうち、72名の命が奪われた。

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忘れないこと

東日本大震災から4年が経過しました。しかし、被災された方々には節目などありません。

我々にできることは、「忘れない」ということではないでしょうか。

亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。