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店人いま 248
中津川市は、名古屋からJRで1時間20分の距離にあるため、比較的に名古屋市の商圏には含まれず、中山道中津川宿としての商人文化が色濃く残り、独自の商圏を築いている。また、中津川の人たちは日専連(専門店会)を知らない人は少ないと勝野社長は言う。中津川の商人は、そういう地元の人たちに支えられ、商人も地域住民を支えている。
そして勝野社長は、専門店の王道は路面店にあるとし、理想としてはヴィトンやエルメス、日本の老舗と言われるような店を目ざし、サービス・ホスピタリティーはディズニーランドのような〝わくわく感・期待感〟を提供できる店にしたいと言う。
中津川、そして日専連をこよなく愛する勝野社長は、次のように言った。
「日専連は志のあるものが集まる専門店集団です。志があれば、必ず何かが生まれます。今の時代には、志が大切なんです」
専門店の王道は路面店にあり
日専連は、虚心坦懐になって志ある専門店集団に回帰すべき
勝野安和 氏 有限会社ひかりや(中津川会)
きれいにする気持ちと売る気のバランス
●創業はいつですか。
勝野 父が初代で、昭和26年5月の創業です。最初は小間物屋でした。ボタンや歯磨きなどのちょっとした雑貨を扱う小間物屋で、きっと戸板一枚の店から始まったんでしょうね。
●今は何店舗あるのですか。
勝野 3店舗です。中津川に2店舗、恵那に1店舗です。
●化粧品は毎年新しいものが出ますが、仕入れはどうされているのですか。
勝野 どこも同じだと思いますが、男性が仕入れることはまずありませんね。ただ、大枠は決めます。
●化粧品の販売は、美容部員さんのアドバイスを受けて、その人が気に入れば買うけれど、そこがすごくデリケートだと思うのですが。
勝野 だからよく勉強してもらわないといけないし、お客さまを本当にきれいにしたいという思いが強くないとダメですよね。きれいにしたいという気持ちと、売るという強い意志をバランスよく持っていることが大切です。
●社員は何名いらっしゃいますか。
勝野 正社員は14人ですが、メーカーからの派遣社員さんを合わせるともっと多くなります。
●勉強会などはされていますか。
勝野 メーカーの勉強会は、ほぼ毎月あります。あとは独自で月1回行っています。
●メーカーもいろいろありますね。
勝野 各メーカー担当制にしています。従業員が担当以外のメーカーを知らないというわけにはいきませんので、月に1度は担当外のメーカーも勉強してもらっています。
担当制にしないで、全メーカーを勉強させている店もありますが、私は担当制にして「あなたはこのメーカーに惚れてね」と言っています。そのほうが現場は売りやすいと思います。
●化粧品はステータスみたいなところもあって、あまり安いものは良くないと思われていますが・・・。
勝野 化粧品の場合、高いもののほうが間違いなく良いです。1万円のスーツを買ったときと15万円のスーツを買ったときと、脳がどう反応するかを想像してみてください。化粧品の場合、高いものを買ったときのほうが、脳がはるかに肌に良い指令を出すと思います。これはある程度、科学的に証明されているんです。
●そういう心理が働くんですね。
勝野 高いものは大事にしますよね。化粧品も大事にしますし、ご自分の肌も大事にするんです。100円、200円のものでは、なかなかそういう感情にはなりません。もちろん高いものには良い成分が含まれています。それを正しい方法で毎日コツコツと努力していただくことが大原則です。その努力のためのお世話ができると売上げも良くなるということです。
知っていただくと正しく使います。正しく使うからキレイになって、正しく減っていきます。そしてなくなったらリピートしていただけるんです。
中国上海万博・義烏流通視察セミナー《驚きと感動の体験記》
7月5日~9日の4泊5日で、本誌「専門店に役立つ中国事情」の連載でおなじみの生井勲男先生が企画し、自ら添乗された「中国上海万博・義烏流通視察セミナー」に参加した。
生井先生は6月21日~25日、6月28日~7月2日にもそれぞれ20名ほどを連れて義烏流通視察セミナーを実施しており、今回を含めてこの猛暑の中、短期間で3回も義烏セミナーを実施されている。
生井先生は、まさにスーパーマンである。
本セミナーは、日専連の組合店を対象として、私を含めて6名が参加(日専連旭川古尾谷理事長ご夫妻、日専連宮古佐香副理事長、日専連宮古菅野常務理事、日専連静岡遠藤様、連盟宇田)。
義烏のおさらい
生井先生の連載で、義烏についてご存じの方も多いと思うが、ここでおさらいをしたい。
義烏は、上海の西南にある浙江省中部に位置しており、上海から新幹線で2時間半の距離にある。
昔は貧困な農村地帯であったが、1982年に義烏県政府が商業活動を重視し、「商業振興による都市建設」をスローガンに掲げ、日用雑貨の専門卸市場を創設した。
以来発展をつづけ、GDPは82年と比較すると、昨年までで2900倍という驚きの成長を見せている。
義烏市内にはいくつもの市場がつくられたが、現在は2002年につくられた一期ビル群をはじめ、二期、三期で、さらに巨大なビルが連なった福田市場に集約されつつある。
また、現在は四期・五棟目を建設中で、今年の11月完成予定。
福田市場の広さは、310万平方メートルもあり、東京ドーム67個分の広さ。端から端まで歩くこともままならない。真剣に見るとしたら数十日は必要であろう。世界一安く巨大な市場には、メーカーや問屋のブースが6万5000社が入り、50万点の品揃え。全世界から毎日20万人ものバイヤーが買い付けに来る。
いよいよ出国だが・・・
7月5日、成田国際空港第2ターミナルのランデブーコーナーに午後3時に全員が集合。
出国の準備をしようと思いきや、上海から来るわれわれの乗る飛行機が、雷雨で飛び立てないとのこと。何とか欠航だけは避けてほしいと願い、ただひたすら待った。
やっと連絡が入り、3時間半遅れの20時半に飛び立つことができた。上海空港に23時に到着。
そこで驚いたのは、外国人の入国審査は、ほんの少ししかいないのに、日本から帰国する中国人の入国審査の列は長蛇。ここでも、中国経済の躍進が伺えた。
上海は日本より少し暑いくらいだったが、話しを聞くと昨日は40度もあったと言う。想像がつかない。
バスで上海市内のホテルに向かう。高速道路がしっかりと整備されている。
途中、高速道路から万博会場を見ることができた。ライトアップされていてキレイだ、そして広い。
車で走っても結構あるので、歩いて見ることは不可能である。
何とかホテルに到着。時刻は0時30分。ホテルは大きく、立派で驚いた。翌日は5時半起床で、いよいよ義烏へ向かう。
ホットプレイス訪問 177
ひたち地魚倶楽部
―商売はやり方次第―
40店が加盟する地魚倶楽部 未利用魚の地魚料理でまちおこし
さすらいの商売繁盛伝道師 高桑 隆
女子の本音は、〝少し不良っぽくて、規格外の男子ってカッコイイ!〟だった
歳のせいなのか、最近よく昔のことを思い出す。田舎の中学3年生のころ、ホームルームでこんなことがあった。
クラス担任が、〝今度のホームルームは、クラス委員中心で運営しなさい!〟とホームルームを生徒の自主運営にしたことがあった。クラス委員である僕らは、ない知恵を絞って、「男子の理想の女子タイプ、女子の理想の男子タイプ」を、クラス全員からアンケートし、その結果を話し合うことにした。(今考えれば、なんてバカバカしいことをしたのかと反省するが、当時はかなり真剣だった...)
女性陣の答えが、〝頭が良く、勉強もできるが、少し不良っぽく、世間の規格にはまらない危険なにおいのする男の子が、理想のタイプ〟だった。
思わぬ答えにたじろいだ...。男子の求める理想の女子...そんなものは、もうどうでもいい。それよりも、女子が求める理想の男子像に仰天した。当時の私は15歳、予想もしない答えに〝へぇー、女ってこんなこと考えてんだ...〟初めて、異性の不可思議さを意識した瞬間だった。
しかし、今になってみれば、そんなの当たり前。決まり切った型にはまった面白くない真面目男より、お笑いタレントみたいで、多少イケメンで、少しばかり金持ちなら、そこらの2枚目俳優よりずっともてるのが常識。
タレントの藤原紀香も安達祐実も、そんな男に惚れて結婚し、離婚。頭が良くて美男子なだけじゃ、女性は退屈なんだな.。
「規格外」という言葉は、今の時代に魅力的に響く。大河ドラマで大人気なのが、坂本竜馬。彼も脱藩浪士で、封建時代の決まり切った規格社会から、完全に外れた男だった。
世の中が安定し、景気が良い時代には、規格にガッチリはまった者がもてはやされる。昭和40年代、欧米流チェーンストアが大流行した。ダイエー、イトーヨーカドー、ジャスコ、セブンイレブンと、全国に店舗網を広げ、同じように標準化された店舗が消費者からもてはやされた。
しかしバブル崩壊を経て、成熟し、高齢化を迎え、閉塞感漂う今の日本では、政治家も経営者も、ワイルドで野心あふれた規格外の人物が求められている。
日本の成長を支えた、一流大学を出た官僚経験者のエリートなどに、現在の難しい時代を乗り越える力はないと国民が感じているからだ。
今までは、規格にあてはまらないモノは、人間でも食材でも不良品として捨てられていた。農産物や、海産物も同じである。
一般の消費者には、なじみはないが、「規格外農産物」「規格外鮮魚」が多数存在し、形が不格好で見た目が悪いという理由だけで、市場流通にのらない膨大な産物が、ただ無意味に廃棄されている...。
しかし、こんな「規格外品」にも、いよいよ出番がやって来る時代になったのである...。
店人いま247
「株式会社ほくせい」は、それまでつづけていた麺製造会社が業界不振に見舞われ、昭和47年に思い切った業種転換を図って葬祭業に進出。また、加藤久智社長は、30歳の若さで前社長であるお父さまから社長業をバトンタッチされて引き継いだ。これは、お父さまも30歳の時に葬儀会社を興したという理由からである。そして、今の葬祭業界の慣習や既成概念にとらわれずに、つぎつぎと新しいアイデアやシステムを構築して、コストダウンも図りつつ、着実にシェアを広げている。
「株式会社ほくせい」は、地域文化の変革、葬儀の変化に対応しながら築き上げてきた。地域からの信頼を基盤とし、社会環境の変化や核家族化が進む中、お客さまの葬儀関連にまつわる潜在的ニーズを的確にとらえ「伝統儀礼を守りつつ、時代に合ったお葬儀を目ざして」をセレモニーコンセプトに、独自の葬祭サービスを構築してきた。
30歳で父親からバトンを受け 葬祭業では珍しい ISO9001を取得
加藤久智 氏 (株)ほくせい(桑名会)
●昭和47年、お父さまの代のときに、それまで経営されていた麺製造会社を閉めて、葬祭業を始められたということですが、畑違いの業種に転換されたきっかけは何だったのですか。
加藤 当時、大手の麺メーカーがどんどん大きくなってきて、その傘下に入った小さい工場は価格決定権がないので、大手からどんどん締め付けられて経営状況が悪くなり、会社を閉めたと聞いています。そして、価格決定権を持てるということで葬祭業を選んだそうです。当時としては思い切った決断だったと私も思います。
●今、葬祭ホールはいくつお持ちですか。
加藤 7つです。
●ずいぶんたくさんのホールをお持ちなのですね。このお仕事を継ぐことには、抵抗はありませんでしたか。
加藤 学生をしながらこの仕事を手伝っていましたので、抵抗はありませんでした。
●では、他社に修行に出ることはなかったのでしょうか。
加藤 1度は外に修行に出たかったんですが、私が抜けると仕事が回らないような状況でしたので、仕方なくそのまま家業に入りました。ただ、それだけでは納得がいかなかったので、さらに2年間、大学院で宗教について勉強しながら仕事をしていました。
●30歳で社長を継がれたということですが、お父さまはずいぶん早く引退されましたね。
加藤 54~5歳でしたかね。父も30歳のときに製麺業をやめて葬祭業に転換したんです。だから30歳ならできるはずだ、29歳から社長をやれと言われました。
●30歳で経営にたずさわるとなると、人の使い方などご苦労もあったでしょう。
加藤 そのころ社員はみんな年上でしたから、思うようにいかないことはありました。今年で12年になりますが、今は今で、やはり難しいですね。
●最終的に大切なのは人だと思うのですが、社員教育はどのようにしてらっしゃいますか。
加藤 毎日の朝礼では倫理法人会発行の『職場の教養』を読んで、人としての在り方について話しています。また月に1度の早朝会議でも、私自らが社員に対してどうあるべきかという話をしています。
日専連第65回全国大会 記念講演会
急伸する中国経済 千載一遇のビッグなチャンスをどう生かすか!
講師 : キング・アド 生井勲男
急伸する中国経済。GDP、平均賃金、および消費購買力の増加。エネルギー自給率や食料自給率が100%を切った中国。これからの日本は、中国から物を買う時代ではない。日本の優秀な商品や技術を輸出する時代である。
そこで全国大会記念講演会では、本誌連載『専門店に役立つ中国情報』などでおなじみの生井勲男氏に、中国の実情と日本が中国に対して行うアプローチの方法などについて語ってもらった。
世界経済を牽引する中国の底力
中国は、北京オリンピックの後にバブルがはじけるのではないかとか、現在開催中の上海万博の後に、ちょっとおかしくなるのではないかとか、よく言われます。でも、中国という国は、私たちが考えていた以上に奥が深いようです。
いつも思うのですが、「人口」というのはすごい。中国の現在の人口は、表向きには13億4000万人などと、いろいろと言われています。
中国という国は、56民族のうち55民族が少数民族で、その全人口が把握できなかったり、第2子が生まれても戸籍に登録されなかったりするんです。だから、実際の人口はもっと多いはずです。
これから世界の実権を握るのは、間違いなく中国です。国土の面積が日本の25倍もあって、13億人とも14億人とも言われる中国の国民が、とりあえず食べられるというのはすごい国力です。だから、北京オリンピックだろうが上海万博だろうが、それでバブルがはじけることなどあり得ません。北京オリンピックでは、北京全体の経済力のわずか3.3%を消費しているにすぎませんから、ほとんど影響はありません。上海万博も同じです。
また、インドの人口は、現在11億~12億人くらいですが、2054年には世界最高の16億1000万人になると言われています。11億人から16億人に人口が増えても、食べていける力があるというのはすごいと思います。
よく「BRICs 」(経済発展が著しいブラジル、ロシア、インド、中国の頭文字を合わせた4カ国の総称)という言葉を使います。その次に「NEXT11」(BRICs に次ぐ急成長が期待されるこの新興経済発展国家群)というグループがありますよね。ロシアは若干人口が減っているようですが、そのほかはすべて人口が増える国なんです。
人口が増えても食べさせられるというのは、すばらしい国なんだと思ってしまいます。
では、日本について考えてみます。日本という国は、江戸時代は鎖国ですから、食料自給率は否応なしに100%でした。
日本の人口が減ったのは、有史以来3回あります。最初に減ったのが縄文時代です。そのころは、まだ稲作はありませんから、自然災害のために食料難になって、人口が減ってしまったんですね。
その後、ずっと日本の人口は増え続けたのですが、江戸時代に2度目の人口減がありました。そして3回目の人口減が現在です。わずかではありますが...。
人口が減るということは、国力が落ちるということです。逆に言えば、人口が増えて、その人口を食べさせられるといのはすごいことであり、私は「人口=国力」という見方をしています。
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一店逸品運動フォーラム2010を終えて...
各地で進化している一店逸品運動
NPO法人 一店逸品運動協会 理事長 太田巳津彦
運動ということ
今春、一店逸品運動協会としては、初のオープンイベント「逸品フォーラム2010」を開催しました。
開催の目的は、1人でも多くの方に、一店逸品運動を〝正しく〟理解していただきたかったからです。
最近、テレビや新聞で、一店逸品運動について紹介されることが増えてきました。ところがマスコミは、 逸品運動の紹介というよりも、話題の逸品を取り上げるにとどまります。たとえば、お茶屋さんと豆腐屋さんのコラボで出来上がった、抹茶豆腐といった具合です。
しかし一店逸品運動とは、こうした話題づくりを目的としたものではありません。また、逸品フェアの様子を放映したり、チラシを紹介することも多いように思います。
このようにマスコミでは、逸品運動そのものではなく、話題の逸品や逸品フェアを取り上げてしまいます。
しかし、一店逸品運動とは、一過性のイベントではありません。一店逸品運動は、「運動」なのです。運動ということは、商業者による日ごろの活動にほかなりません。もちろん、一店逸品運動も日常的な活動です。具体的には、毎月開催される逸品研究会が、一店逸品運動の基本となります。
逸品という言葉は、最近よく登場するので、お客さまの抱く逸品に対するイメージも、多種多様です。
概して、「珍しいもの」「オリジナル」「他にはないもの」といったイメージを、逸品に対して抱いているお客さまが、多いように思われます。しかし、一店逸品運動における逸品とは、珍しい商品ではなく、「おすすめ商品」です。
したがって、一店逸品運動で生まれてくる逸品の概念が、地域のお客さまに浸透するためには、ある程度の時間がかかります。
これまでお手伝いしてきて実感するのは、3年目になるとお客さまの逸品に対する反応が良くなるということです。
たとえば、逸品のチラシを折り込んだその日に、逸品を求めて、お客さまが店頭にお越しになるようになります。すなわち、最低3年続けていれば、一店逸品運動が、地域に定着するのです。ところが、この「3年続ける」ということが、商業者の方はあまり得意ではありません。
これまでの、商店街での事業を見ても、3年続けられたものは少ないようです。朝市にしても、チャレンジショップにしても、当初は盛り上がるものの、3年後には影も形もなくなってしまっています。
「継続は力なり」です。
逸品は生き物ですから、売れる時もあれば売れない時もあります。目先の結果に惑わされるのではなく、地域の運動として、じっくりと腰をすえて、一店逸品運動に取り組むことが大切なのです。
店人いま246
フルーツ専門店「新宿高野」は、明治18年に新宿に店を出してから、今年で125年を迎えた。日本で唯一のマスクメロン専門コーナーを設け、旬のおすすめのフルーツを多彩に取り揃え、フルーツを熟知したフルーツアドバイザーがきめ細かく対応する。人々の暮らしの中で、フルーツの果たしてきた役割と原点を見直し、自然の恵みに体現したフルーツを使ってオリジナル商品を提案する。
社是は「伝統ある信用を重んじ、商業を通じて社会に尽くそう」である。髙野社長は、商店街をはじめ、まちづくり、警察・防犯など、多くの役職を背負い、新宿の街を愛し、新宿のために貢献し続けている。
ライバルは「新宿高野」とことんフルーツにこだわり
新宿の街にこだわりつづける
メロン作りは芸術
●創業は明治18年とお聞きしましたが。
髙野 明治18年3月に新宿駅ができ、同年10月に店を出しました。
●当時は、どんなご商売をしていたのですか?
髙野 そこでは、古道具とかまゆ問屋をやっていました。果物も少し扱っていたようです。
●明治33年に果物の専門店になったとのことですが。
髙野 少し話はさかのぼりますが、今の新宿御苑は当時、農業試験場だったんです。海外の草花や果物を集めて改良を重ねていたんです。メロンやイチゴなども新宿御苑で苗木を作っていたんですよ。
メロンは早稲田大学創始者の大隈重信侯が外遊に行かれたときに苗を持って帰ってきたのです。それを新宿御苑にあった農業試験場にゆだねて、改良を重ねて、今のマスクメロンになったのです。その技術は世界一だと思います。
一店逸品運動フォーラム2010 「パネルディスカッション」
まち・商店街・店を元気にする「一店逸品運動」の英知が結集
日専連の組合店もそれぞれのカラーで取り組む一店逸品運動(中)
前月号では、一店逸品運動に取り組んでいる状況や取り組み、キッカケなどについて掲載しました。
今回はもっと踏み込んで、各地域で取り組んでいる逸品運動の特長や苦労したこと、そして将来展望などについてご紹介させていただきます。
パネラー 青森新町商店街一店逸品運動ワーキング
部長 伊香 佳子 氏(日専連青森)
十日町個店活性化勉強会
会長 山内 直道 氏(十日町専門店会)
小倉逸品屋フェア実行委員会
委員長 祷 峰晴 氏(日専連北九州)
コーディネーター:一店逸品運動協会 理事長 太田 巳津彦氏
逸品運動の特徴
太田 お三方が取り組まれている逸品運動は、それぞれにこだわりや特長があるかと存じますが、そのあたりをお話しいただけますでしょうか。
伊香 うちの特長は「お店回りツアー」に力を入れていることです。1組のツアー構成は、お客さま8名程度。それ以上だとお客さまに説明が行き届かず、店内の移動も大変なので、対応できる商店街ガイドの人数に応じて、8名ずつ3組から4組の募集で年6回実施しています。
当初は、逸品やお店紹介のみが主体のツアーでしたが、今では逸品をその場で購入いただいたり、口コミで広めてくださるので、直接販促につながります。また、最初のころは回る店舗数がもっと多かったのですが、現在はお店の数を減らし、説明のあとゆっくり見ていただけるよう1店舗あたりの滞在時間を増やしました。また逸品のお店での昼食は、最初は補助金があり、取り組みの浸透のためにも無料でした。現在は、自己資金での取り組みなので、ほぼ所要金額通りを参加費としていただいていますが、毎回満員になります。また、ツアー継続のおかげで、お客さまとの絆が新しい形でできるようになりました。
また、逸品フェアの区切りは特にしていません。1年かけてせっかく決める逸品ですから、毎年3月に新聞折込でデビューし、掲載した逸品カタログは、各店頭、ホテルのフロント、観光案内所などに置いて、1年間ずっとおすすめしていくようにしています。
山内 特長は、逸品運動に参加しているメンバーに若手が多いということでしょうか。もう1つは、会費が高額ということです。1店舗月額1万円をいただいていました。しかし、ほかの地域に比べて高すぎることが分かったので、今は6000円に下げました(笑)。また、1店舗から何名が参加してもよい形にしているので、なるべく従業員や販売担当者を出してくれるようにお願いしています。現場にいる方に勉強していただきたいですからね。
私も文具屋の社長ですが、会議には積極的に従業員を出しています。うちは逸品を決める決定権も従業員に持たせています。
お店巡りツアーは、8月から毎月開催しました。「かわら版」も毎月1回出しています。それらを毎月やることにしたのは、勉強会だけではモチベーションが上がらなかったからです。
「かわら版」は、それぞれの店舗で手配りしています。新聞折り込みなどはしていません。「お店巡りツアー」と「かわら版」は、お客さまとじかに触れ合える、とても大切なツールです。
ツアーに参加される方から「次はいつですか?」とか、お礼状をいただいたりします。うれしいですね(笑)。地元にお住まいの方でも「こんなところにこんなお店があったんですね」とか「敷居が高そうで入れなかったです」という意見をお聞きすることができました。また、「こんなに気さくな店主さんがいらしたんですね」とか「こんな物を売っているなんて知りませんでした」という意見もいただきました。
祷 小倉では年間を通していろいろなイベントを行っているので、イベントに対してのマンネリ感が消費者をはじめ、店主や従業員にもあります。スタンプラリーなどをやっても、スタンプを押しに来るだけで、逸品を見ずに帰ってしまう方も多くいます。
理由はなんとなく分かっているんです。イベントをお客さま目線ではなく、自分たちの目線で行っているからだと思います。そこら辺を今、変えていこうと努力しています。また、商店街ごとに行うイベントでも、ほかの商店街でもお互いにPRするようにして協力し合うようになりました。このヨコとヨコの連携を大切にしています。
また、小倉は行政が行うイベントも結構あるので、ギブ・アンド・テイクで、こちらの情報も載せていただいています。これも1つの連携の形だと思います。
ファッションマーケティング昨日・今日・明日 Vol.2
SPAから
ファストファッションへ
第1回は、戦後から20世紀の終わりまで、ファッション業界が「製品志向→販売志向→顧客志向」とビジネスモデルを発展させてきた過程の話でした。その中で商品価値は、品質からブランドによる差別化へ、そして着こなしによる差異化へと変化してきました。
1989年のベルリンの壁崩壊に始まる90年代のグローバル化は、国境を越えて最適化されたサプライチェーンによって、適材適所での商品供給を可能にしましたが、21世紀はさらに低価格競争が激化していきます。
9・11同時多発テロ
90年代が、1991年の湾岸戦争で始まったのに対し、皮肉にも21世紀は9・11のアメリカにおける同時多発テロでスタートしました。これは私にとって、戦争というものを身近に感じると同時に、20年以上にわたって海外ブランド提携やライセンス生産に関わってきた自分の立ち位置を確認した事件でした。
2001年9月11日、2002年春夏ニューヨーク・コレクションは始まったばかりでした。いつものように、コレクションサイトからショーの写真をダウンロードしている夜、突然インターネット接続が切れました。仕方なく仕事を切り上げ、帰宅してテレビをつけて同時多発テロを知りました。そしてニューヨーク・コレクションは、その日で2002年春夏コレクションを史上初めて中断し、その後行われたミラノ・コレクションではグッチ、ドルチェ&ガッバーナなど、多くのデザイナー・ブランドが特別に作品を追加して、9・11の衝撃と犠牲者への哀悼を表現しました。
1991年の湾岸戦争のときもそうでしたが、紛争状態になると日本の大手企業は一斉に海外出張が禁止になります。ちょうど、ミラノ、パリでデザイナー・コレクションに前後して素材展が開催される時期に、商社、アパレルメーカーは買い付けに行けなくなります。その結果、取引先に買い付けや情報収集を依頼され、私のような弱小企画会社のオーナー経営者は、ガラガラの航空機でパリに飛ぶこととなりました。
そろそろアメリカの報復攻撃があるとうわさされつつも、何とか無事素材展が終了し、10月7日の帰国の日を迎えました。海外出張禁止令のせいで「パリ―東京」直行便の日本人乗客は異常に少なく、マイレージの優待でビジネスクラスどころかファーストクラスにアップグレードされて、待合室で出発を待っていました。
ゲートまで案内された後、搭乗直前にアメリカ軍によるアフガニスタン攻撃のニュースが入り、飛行経路の安全確認のために出発を遅らせるので、待合室に戻るよう指示が出ました。数人の乗客はすごすごと待合室に戻ったのですが、ファーストクラス・ラウンジのフロアに戻って驚いたことは、アメリカ系以外にも海外航空会社の待合室からは歓声が聞こえるではありませんか。
多くの日本人にとって9・11は衝撃ではあっても、一部の当事者以外は他人事であったと思います。犠牲者を悼んでも、それはわが身を切られる痛みではなかったのです。しかし、シャルルドゴール空港には、衝撃をわが痛みとし、わが憎しみとした人々がいたのです。アメリカ軍の報復攻撃に祝杯を挙げられるほどに...。欧米人とはこのように連帯感を持つのかと気づかされました。
このテロは、翌年の2003年春夏コレクションに影響を与え、70年代反戦運動の象徴として「フラワーチルドレン」を多くのデザイナーが取り上げました。開催日もテロの記憶が生々しすぎるとして、ニューヨークとロンドンの日程を入れ替えて行われました。デザイナー・コレクションの日程が組み変えられたのは、これまたコレクション史上初で、ここにも欧米の連帯感が感じられました。 この出来事をきっかけにして、私は日本人にとってグローバル化とは何かを考えるようになりました。当時20年以上にわたって、ヨーロッパのトレンドを日本市場に展開し、ヨーロッパのデザイナーを紹介してきましたが、サイズ、髪や肌色の違いだけではなく、他者との距離感やアイデンティティのより所がどうも違うのではないのだろうか、その違いにより、マーケティングに差が生じるのではないかという疑問を心の奥に持ち始めたのです。
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店人いま245
職人が丹精込めた質の高い製品と優れた研ぎの技術で高い信頼を
札幌で愛されつづけている老舗店
宮本隆一氏 刃物専門店「宮文」(札幌会)
聞き手 木村嘉代子
経済不況の長いトンネルから抜け出せないでいる北海道。札幌も例外ではなく、商店街や専門店は特に厳しい現実にさらされている。
札幌駅前の再開発により、2003年に駅周辺に大丸札幌店や駅ビルのステラプレイスがオープン。札幌最古の商店街の1つ狸小路商店街も、年々売上げが減っているという。
こうしたなか、狸小路で昭和2年から83年営業を続け、「さん」づけで親しまれているのが、刃物専門店「宮文」だ。
今回、3代目の宮本隆一社長にお話しをうかがった。
狸小路が様変わりしても昭和初期からここで営業
●1代目はどちらのご出身ですか?
宮本 祖父は兵庫県三木市の出身です。三木市は日本剃カミ刀ソリの産地として有名で、祖父は日本剃刀職人の丁でっち稚奉公に入ったんですね。そして独立し、その後、東京に上京して仕事をしていました。
●どのような経緯で、札幌に開業されたのですか?
宮本 札幌の中島公園で北海道博覧会が開催され(大正7年)、祖父は日本剃刀を出品しました。当時、北海道にはあまり切れる剃刀がなかったようで、人気を博し、かなり売れたそうです。それで、〝北海道はいける、本州より売れる〟と札幌に引っ越してきたのです。
祖父の名は宮本文太郎で、そこから「宮文」の屋号をつけました。
●最初からのこの場所で開業したのですか?
宮本 祖父は狸小路4丁目に店を出しました。僕もそこで生まれたのですが、木造の建物でしたね。昔は、住み込みの社員もいました。多いときには、6人ぐらいはいたと思います。僕が幼稚園のときに、中学を卒業したばかりの15歳の住み込み社員が3人入ってきました。兄貴のような存在ですよね。自分が社長になってからも、ずっと一緒に働きました。
●現在の店舗は狸小路二丁目ですが・・・
宮本 ここに移転したのは2000年です。その前に、4丁目のコスモビル1階の狸小路側に店を構えていました。父の時代、1972年に札幌冬季オリンピックがあり、そのときに、木造の店舗を壊しました。昔の駅前通りはもっと狭く、木造の建物が並んでいたのですが、札幌オリンピックに合わせて、駅前通りの美化計画が実施され、幅員を36メートルに広げ、建物もビルにしたのです。店のあった場所には、地上7階のコスモビルが建てられ、店舗もその中に入ることになりました。ビルは360坪で、そこの商店がみなテナントとして入りました。
●そして再び移転された?
宮本 土地と建物が売りに出ていたので。ずっと狸小路で商売をしているし、「ここにビルを建てようか」ということになりました。コスモビルの店舗は賃貸していて、ビル運営の仕事もしています。4丁目で70年ほど、こちらに移って10年ということですね。
●札幌で刃物専門店は珍しいですね。
宮本 包丁などを扱っている金物屋は、この近辺にも3軒ぐらいありましたが、全て店を閉めてしまいました。
●お客さまの層はどうですか?
宮本 おかげさまで、根強いファンといいますか、寄ってくださるお客さんがたくさんいらっしゃいます。8割ぐらいが一般家庭の方で、おばあちゃん、おかあさんと、代々引き継いでいる感じですね。一番うれしいのは、「宮文さん」と呼んでもらうことです。親しみとか、愛着とか、そういうことの総称が「さん」だと思っています。ですから、テレビコマーシャルもやめられないんですよ。
●どういうことですか?
宮本 「テレビやラジオで宣伝していますよね」とよく言われるのですが、せざるを得ないというか。CMをやめてしまうと、知名度が落ちるので。名前を知らないと、「宮文」という選択肢がなくなるわけですよ。たとえば、若い人が包丁を購入しようとするときに、どこへ行くかというと、デパートやスーパー、金物屋、ホームセンターなどです。専門店の「宮文」の名を知らなかったら、選択肢の中に入らないのです。
●コマーシャルの影響は大きいですか?
宮本 そうですね。うちの父が、コマーシャル好きだったというか、テレビやラジオで積極的に宣伝を始めました。当時は、ほとんどの人が店の名を知っていましたね。僕が20代か30代のころです。ところが今では、知らないという若い人がかなり多いですね。経済状況が厳しくても、宣伝費だけは縮小しないようにしています。
使い捨ての時代でも刃物は研いで末永く
●100円ショップで包丁が買える時代ですからね。
宮本 100円ショップの包丁は、焼きが甘くて、研いでもすぐに切れなくなってしまいます。安い包丁を買い、切れなくなったらポイポイ捨てるのは、かえって高くつきます。普通の万能包丁は、20~30年使うことができます。一生モノなんですよ。
●なるほど。
宮本 ある程度いいものであれば、1回研ぐと半年から1年近く使えます。研ぎ代は1丁700円ほどですから、1年で約1400円費やせば、一生いい切れ味の包丁を保つことができるのです。1丁5000円から10000円でしたらいい包丁ですから、20年間で研ぎ代の30000円をプラスしても、約40000円ですよ。それでずっと使えると考えれば安いですよね。
●使い捨てはダメですね。
宮本 百貨店や金物屋は刃物の専門店ではないため、わからない部分もあると思います。専門店のメリットは、腕のいい職人に作ってもらい、メーカーから直接仕入れ、良い品物を安く提供できるところにあります。うちの場合は、新しい包丁でも研いでからお客さまに渡します。
●新品を研ぐのですか?
宮本 普通は職人が作ったものをそのまま売りますが、うちは、お客さまに渡す前に再度研ぎを入れます。メーカーの切れ味と、僕らが研いだ切れ味というのは違うんですよ。
●そういうものなのですか。
宮本 うちの自慢は、研ぎの技術です。研ぎ職人は50年選手で、今は若手もどんどん腕を磨いています。研ぎの技術が高く、「宮文の包丁は切れる」と評判なんです。他の店で買った包丁も研ぎますよ。
職人は、誰であろうと、包丁を一生懸命に作っているのです。刃が欠けたからといってポイポイ捨てるのではなく、研いで使ってほしいですね。包丁の寿命を全うさせるべきです。一生懸命に職人さんが作ったことを考えれば、捨てられないですよね。
●刃物は全国各地から仕入れているのですか?
宮本 そうです。たとえば、大阪の堺市とか。堺市は昔、日本刀づくりで有名な地で、その流れから、包丁などの刃物の産地になっています。寿司屋が使う柳刃包丁や、出刃包丁、菜切包丁など、堺市には腕のいい職人が多く、優れた刃物メーカーがそろっています。その他、東京や横浜など、いろいろなところから仕入れています。
●包丁には「宮文」と入っていますね。
宮本 職人とは父の代からの付き合いで、「ここをこうしてくれ、ああしてくれ」と要望を出し、ここのオリジナルとして作ってもらっています。
