機関誌『専門店』ハイライト
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店人いま259
想像から創造の架け橋 社会貢献、後世に残る仕事に 技術力を生かして取り組んでいる
藤田卓也氏 藤田印刷株式会社(釧路会) 聞き手 連盟 宇田 弘
その昔、釧路は漁港の一大基地として繁栄し、栄華を築いた。今回取材した藤田印刷(株)は、戦前に缶詰のラベル印刷で富と高い印刷技術を得た。その後、漁業・炭坑の衰退、ロシアとの国交断絶など、産業・経済の衰退は加速した。
そんな中、世界ポスターコンクールで優勝し、その技術力が広く認知された。藤田社長は、「後世に残る仕事、社会貢献につながる仕事を目ざしたい」とのことで、国内外の有名アーチストなどの仕事を積極的に請け負う。また、おじいさまからの格言で、「"ライスワーク"はするな(食べるための仕事はするな)」と厳しく言われてきたという。
息子さんも成長し、これからは、技術力を生かしてアジア、特に中国に進出したいと意気込みを見せる。
缶詰のラベル印刷で富を築き、技術力を得た
●創業は何年になるのですか。
藤田 大正6年釧路創業ですから96年目になります。今は、ここ釧路に本社を置いていますが、小樽で私の高祖父が明治末期に創業しました。
●印刷会社を始めたきっかけは?
藤田 高祖父は幕末の長岡藩の負け兵です。新潟の負け兵が会津で負け、仙台で負け、函館で負けて、その人たちが集結した地が小樽だったそうです。高祖父は長岡藩の郷士の百姓でしたが、抵抗した側について北海道まで追われて来たということです。
祖父は旧制小樽中学の1期生で、学問の道に進みたかったようですが、曽祖父が当時は小樽から今の大泊(旧樺太)との間に小泊航路というのがありまして、そこの機関長をやっていたのですが、遭難して亡くなってしまったのでやむなく学校を辞め、当時の石版印刷会社で働くようになり、その後に小樽で独立したということです。
●釧路に移られたのは?
藤田 祖母の実家は富山で両替商をするくらいお金があったもので、小樽で創業しましたが、他にも新天地があるということで、親方から釧路に行けと言われて夫婦で釧路に来たようです。
戦前の釧路は北海道の産業・文化の発信基地の一つとして発展し、根室、北方四島、千島、樺太、カムチャッカ、ロシアまでの広い範囲をテリトリーとして、当社は戦争が終わるまでは北海道で第2位の印刷会社でした。
●当時は釧路に、人もモノも情報も集まっていたということなのですね。
藤田 釧路は根室・千島列島へ至る重要な拠点で、ニチロ、極洋、日水、マルハなどの会社が集まっており、水揚げされた魚を缶詰に加工していました。当社はそのラベルを石版印刷で請け負ってました。
●缶詰のラベル印刷から始まったのですか。
藤田 そうです。ラベルの印刷だけでも十分な収入がありました。その当時は戦争景気で、樺太、満州、南洋諸島などの市場から印刷受注をすべて引き受け、鯨缶、鮭缶、鱒缶、カニ缶など、ありとあらゆる缶詰ラベルを作っていました。
それだけのために釧路に来たと言ってもいいくらいです。技術も素晴らしいと評価をいただき、そのおかげで富も成しました。
世界ポスターコンクールで優勝!
●戦前はラベル一本でやってこられましたが、捕鯨も縮小されてきましたので、厳しい時代になってきたのではないですか。
藤田 それよりも釧路と根室はロシアとの航路がなくなりましたから、それからは衰退の一途ですね。その中で何を目ざすのかということになりました。
まさかロシアとの繋がりがなくなるなどとは思っていませんでした。当社はロシアとの取引もありましたから。
●拠点基地がなくなって、どう生き残るかということですね。
藤田 印刷業は人口比例型産業で大都市圏に集中しています。しかも印刷会社は東京に85パーセント集まっています。それでどうやって生き残るかというと、技術に特化するしかないということになったのです。
それで日本で初めて戦後、世界ポスターコンクールに出品しまして、1956年の第4回ウイーン大会でなんと優勝してしまったんです。
●どのようなポスターですか。
藤田 旧国鉄鉄道管理局から広告用のポスターとして依頼され、当社で作りました。今のJR北海道ですね。
●これは今でいう観光ポスターですね。
藤田 そうです。
●このポスターをデザインされたのは有名な方なのですか。
藤田 故・栗谷川健一という日本を代表する有名なデザイナーで、札幌オリンピックをはじめ、アジア大会のポスターのデザインもした方です。これは当社の当時の2色機で何回も何回もかけて作ったポスターです。12色刷りとなりました。
●価値のあるものなのでしょうね。
藤田 どうでしょうか。でも、これまで世界制覇できたのは日本では5社しか出ておりません。しかも、いずれも名だたる大手印刷会社ばかりです。当社のような小さな会社はありません。うちは、それだけ技術に特化してきたから今があると思っています。
●それは戦前に利益を上げられた時に、そういう技術部門に十分な投資ができたということでしょうか。
藤田 それもありますが、缶詰ラベルから精密株券など、かなり複雑なものまでやっていたので、そういう技術を自然と培ってきたからだと思います。
●ラベルは商品の顔ですからね。
藤田 そうです。そうしなければ外国産に負けます。当時の缶詰の競争相手はノルウェー、スウェーデン、フィンランド、いわゆる北欧の国々です。ご存じだと思いますが、カニ缶に入っている油紙がありますね。あれは日本で開発されたもので、カニの汁などで缶が錆びたりしないようにするためのものです。この発想は日本人だから生まれたものだと思います。
ZARD写真集をはじめ後世に残る仕事をしたい
●その後の展開をお聞かせ願いますか。
藤田 残念ですが、その後は水産もダメになる、石炭産業もダメになる、製紙業もダメになるという状況でしたから、顧客を求めて東京に出ました。今は各国大使館の仕事も請けています。
●印刷業界は熾烈で、競争が激しいと聞いていますが。
藤田 JポップのZARDの20周年の写真集の仕事をいただきました。なぜ当社でできたのかと言いますと、まず技術で、次に価格、それとこれまで創り上げてきた人脈と信用でしょうか。
作家の故・福永武彦展のポスターもうちでやらせていただきましたが、とにかく後世に残る仕事であるとか、社会貢献的な仕事がしたいのです。また、技術的には同じレベルの会社が東京にもありますが、東京と違うのは、地方都市は東京より生活費がかからない分、コストを抑えることができるところです。
●技術があってコストも安いということですね。
藤田 そうです。これは、ニューヨークから仕事をいただいたもので、グランディーバという男性バレエ団の写真集です。まさに、当社の技術力が認められた証のようなものです。当社の技術にニューヨークの人たちがビックリしていました。
大手の印刷会社も技術は当然持っていますが、多くの社員や施設の維持に経費がかかるので、コスト的にうちが取れたのだと思います。中小でも技術が追いついたところは生き残っているのです。
●このグランディーバのお仕事は、どういう経緯で受けられたのですか。
藤田 当社と関係したデザイナーがニューヨークに滞在しておりまして、その方のネットワークで得られた仕事です。東京で作ったら高いけど、技術があって安くできるのであれば、当社に依頼してくるのは当たり前の話しですよね。
「"ライスワーク"はするな」という、祖父からの格言
●御社の場合は、技術というものがありますから、ポスターや写真集などがメインになるのですか。
藤田 そうですね。画像処理が特別得意な分野です。
●収益的に支えているものは、どういったものになるのですか。
藤田 売上げの分野では図録、カタログ、ポスター、ラベルなどですね。事務用伝票や封筒などもありますが、全体の売上げで見ると2割にも届きません。
富良野ワインや十勝ワインのラベル、商品パンフレットですとか、観光地パンフレットやカタログが多いですね。とにかくカラーに特化しています。ラベルは当社が伝統的にやりたい分野です。本当はもっとやりたいのです。でも大手企業はビンの調達からしてきますので、そんな力はわれわれにはありませんから、ところどころ大手に取られてしまいます。
結局、何が残るのかということになると、祖父から厳しくしつけられたのですが、常々言われていたことは「"ライスワーク"はするな」ということです。「ライスワーク」というのは、米を食べるための仕事をすることです。そんなことでは文化貢献でも社会貢献でも地域貢献でもない。文化や歴史や地域に貢献したいのなら、「ライスワーク」を「ライフワーク」に変えろと。でも「ライフワーク」と言えるくらいになる人はいないから、お前は「ライクワーク」くらいまでたどり着けと言われました(笑)。
●ソーシャルメディアなどの普及により、従来の"印刷"というマーケットは縮小し、印刷業界は価格競争が激しいとよく聞きます。各会社は印刷だけではなく、新しい分野にチャレンジしたり、業種転換を図ったりしていますが、結果的に大手に吸収されたり、果ては廃業するところも少なくありません。しかし、御社は技術力で生き抜いてきました。その技術を維持していくためには、人も育てていかなくてはなりませんし、設備投資も必要になってきて大変だと思いますが・・・
藤田 そのとおりです。"人"と"設備"に投資をして技術力を磨いてきました。しかし、それに見合うだけの市場がここ釧路にはなくなってしまいました。以前に市町村合併をして23万人くらいの規模だったものが、今は18万人を割るくらいまで縮小しています。地場だけでは生きられないので、東京や海外に出て行かなければならないのです。
途中から本社を札幌に移すとか、ここを支店として東京に本部を持っていこうかと考えたこともあります。でも当社の技術力は機械や設備に付いているのではなく、人に付いていますので、社員や家族の移転は無理だと分かったのです。今では事業を拡大しなくて良かったと思っています。
●一時は、みんなが規模の拡大に走った時期がありましたね。そのおかげで中小は大資本に負けてしまいました。
藤田 1960年代の政策で製造業と販売業を分離して、まちの中から工場という工場を全部追い出すというまちづくりをしてしまったのが地方では失敗でした。それと補助金を与えて全国を画一にしてしまった辺りから、みんな街なかに住まなくなってしまいました。
当時は、東京はアメリカの生活に憧れ、地方は東京の生活に憧れて古いものを破壊してきました。最近になってその間違いに気づいたけれど、もう元に戻すことはできません。地方は地方なりのやり方でやるべきだったと、今やっと分かったということです。
釧路も再開発理論を受け入れてしまいました。港周辺の商店街は崩壊し、ほとんど価値がなくなってしまいました。昔は坪単価が200万円した中心市街地が、今は15万円ですからね。また、釧路に大手の流通企業を誘致しましたが、ウォーターフロントの知識などありませんでしたから、結局ダメでした。
大企業やデベロッパーに頼るまちづくりだけでは、ダメだという教訓だけが残りました。
当社の技術力でアジアの市場を開拓したい
●最後に、この先のご商売のこと、釧路のまちづくりについて一言ありましたらお願いします。
藤田 日専連の組合店の皆さんは、商業人です。その仲間が何とか継続して商売をすることができれば、いろんな意味で支え合って生きていけます。私が青年部にいた時は、組合店も100店以上ありましたが、今では20数店になってしまいました。少なくなりましたが、残った精鋭で支え合っていきたいと思います。
●そもそも日専連は、中小小売商のかたまりとして活動しよう、運動しようというところからきていますからね。
ご商売についてはいかがですか。
藤田 できれば息子たちの時代は、アジアの市場を目ざしてもらいたいと思っています。せっかくこれだけの技術があるので、中国などの市場を狙ってほしいですね。中国はボリュームだけはすごくなりましたが、技術はまだまだですから。しかも、細やかなものが苦手な人たちなので、当社のような繊細な分野を活かしていきたいですね。
●そういうものを上手く引き継いで、ぜひ世界に再アピールしていきたいですね。それと、社長の人脈はすごいですね。
藤田 今までは、私の人脈やネットワークを活かしてきました。しかし、これから息子たちの世代に移っていきますが、新しい人脈というか、新しい市場を目ざしていかなければなりません。そのためのルートをいつも見つける努力をしていかなければ生き残れないでしょうね。厳しい時代です。でもきっとできるでしょう。
●息子さんのお年を聞いたら、まだ26歳ということで、これからですね。
藤田 風格や態度だけは30歳くらいに見えるのですが、実際にはまだまだ経験が浅く、修行が必要です。ただ全体像がもう少し見えてくれば、ものの見方が違ってくるとは思っています。
今日の日経新聞を見ても、アメリカ自体がデフォルトしそうな状態になってきています。ユーロ圏も危ないですし、その中でどうやってローカルが生き残るのかということですね。
日専連自体も緩やかな連合体として生き残るのか、特化戦略で行くのか、今はみんなが考えどころだと思っています。
●とても素晴らしい印刷技術をお持ちなので、これから先もぜひ頑張ってください。併せて日専連もよろしくお願いいたします。
本日はありがとうございました。
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