機関誌『専門店』ハイライト
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ファッションマーケティング 昨日・今日・明日 Vol.1
ビジネスモデルの推移と付加価値の変化
株式会社プロスタッフ ディレクター 平川すみ子
4月29日に「フォーエバー21銀座店」がオープンしましたが、銀座もかつての老舗の並ぶ街から、「H&M」「ユニクロ」「ZARA」など、ファストファッションやSPAの大型店が競い合う街に、すっかり変わりました。
2008年にH&Mが上陸して以来、怒涛のような低価格競争の流れがファッション市場を席巻してきました。この流れはファッションだけでなく、今やすべての業種の商品価格に及んでいると言っていいでしょう。グローバル化社会では、世界レベルでの競争に勝ち残らなくてはならない、適者生存の原則により、市場という環境に最適化されたものだけが生き残るのだと言われています。
果たして、その最適要因は価格がすべてでしょうか。
私は30年間にわたりファッションビジネスに携わり、アパレルメーカーのデザイナーから始めて、商品企画からマーケティングへとポジションを変えてきました。ちょうどファッション業界が、「製品志向→販売志向→顧客志向」とビジネスモデルを発展させてきた過程を体験してきました。その中で商品価値が、品質からブランドによる差別化へ、そして着こなし(コーディネート)による差異化へ変化していくのを経験しました。
商品価値は絶対的に不変ではなく、時代と人々の意識を反映して変わるものです。逆に言えば、変えられるものでもあります。そこにマーケティング「市場創造」という発想があります。
今までは「流行を作り、その陳腐化を促進する」、つまり次々と新しい流行を生み出す一方で、それに飽きさせることで、さらに次の流行に向かわせるという消費のシステムを作り上げてきました。
では、価格以外の商品価値が、価格に取って代わることはできるのでしょうか? たとえば、地球温暖化問題に対処するために、「環境に優しい」というのは人々の新しい商品価値になって、エコフレンドリーな商品群の消費は伸びています。「安心安全」も新しい商品価値となり、作り手の見える産地直送や有機栽培を実施する食品販売が伸びています。共通するのは、新しい角度から商品価値をとらえるということです。
電化製品では「機能」、食品なら「おいしさ」というのが本質的価値ではないかと思います。これはもちろんクリアした上で、人々の共感を呼ぶプラスアルファを加えること、これがブレークスルーの決め手ではないかと思います。
しかし、コロンブスの卵ではありませんが、最初に思いつくのは大変なことです。そこで、過去や現在の事例に学び、そのエッセンスを新しい視点で展開していくヒントにできたらと考えました。
この連載では、ファッション市場が1980年代以降どのように展開され、成功あるいは失敗したかを振り返りつつ、今日の課題を考えようというものです。歴史分析や検証にとどまらず、今日の課題に引きつけて、ソリューションのヒントを見い出せたらと考えています。
1~2回は、これまでの歴史をひととおり振り返り、各時代はその時々の問題をどのように乗り越えてきたか、今日の問題の芽がどこから生まれたのかを考えてみたいと思います。
ファッションビジネスの歴史と変移
●60年代ファッション導入期 「品質による差別化へ」
日本の既製服事業が本格化するのは、第2次世界大戦以降です。戦後のモノ不足、カネ不足の時代には低価格大量生産によるマスマーケットが形成され、モノがあれば飛ぶように売れる時代でした。
1956年は「もはや戦後ではない」と言われ、モノ不足は一段落し、人々のタンスには、ひととおりの衣類が行き渡っていきます。
しかし、今日とはその質はまったく違うものでした。1959年の皇太子殿下(現天皇陛下)のご成婚は、日本の戦後の終わりを象徴し、パレード中継見たさにテレビを普及させた一大イベントでした。
このときの皇太子妃美智子さまが着用されたローブ・デコルテは、フランスのクリスチャン・ディオール社に発注したものでした。ディオールの死去により21歳(1957年当時)でブランド後継者となったイブ・サンローランによりデザインされ、パリから女性スタッフが来日して仮縫いがされました。当時の日本にはまだ、ローブ・デコルテをデザインできるデザイナーがいなかったのです。
34年後、1993年の皇太子殿下ご成婚で皇太子妃雅子さまが着用されたローブ・デコルテがフランス・オートクチュール(高級注文服)協会のメンバーとなった森英恵のデザインであったことと対比させると、この30年余りで日本のファッションビジネスとマーケットが遂げた変化の大きさに驚かされます。
60年代はひととおり行き渡った衣服に対し、品質による差別化が行われ、ウールマークや合成繊維メーカーによる原料の品質保証のキャンペーンが始まります。つまり実用衣料から他との差異化を図る手段としての「ファッション化」がスタートしたわけです。
1963年には日米衛星中継のテスト放送が行われ、ケネディ大統領暗殺という衝撃のニュースで、情報がヴィジュアルに瞬時に世界に伝わる時代が幕を開けます。このとき、大統領夫人ジャクリーン・ケネディが着用していたのはピンクのシャネルスーツでしたが、これはオートクチュール(高級注文服)によるものでした。
ラグジュアリーブランドが今日のように既製服化されるのは、1966年にイブ・サンローランがセーヌ左岸にサンローラン・リブゴーシュを出店してから後です。海外のラグジュアリーブランドも、まだ今日のビジネスモデルを確立してはいませんでした。
●70年代ファッション成長期 「多ブランド化の始まり」
70年代は高度成長を支えるインフラ整備にともない、売り場としてのハコが増加し、多ブランド化が進んでいきました。『パルコ』によるファッションビルの出現、そして百貨店の売り場編成が『平場』から『ハコ』に変わっていき、市場には一気に小売店が増えていきます。
それまで、百貨店衣料品売り場は『平場』形式といって、フロアをアイテム別に区切り、各社の同一アイテムを集積する売り場で、販売は制服を着た百貨店の従業員が接客をしました。ところがこの形だと、顧客は各メーカーを比較して単品を選べるのですが、コーディネート商品を選ぼうとすると違う売り場で探す必要があります。またアパレルメーカーにしてみれば、せっかく自社のブラウスを買ってもらっても、スカートは別ブランドで購入されてしまうというケースも出ます。何よりも生産増加を目ざす上で、自社の販売スペースが固定されない、つまり売上げ予測が不安定になるという問題にぶつかりました。
そこで提案されたのが、『ハコ』形式のアパレルメーカー別売り場です。しかも販売員は百貨店の制服を着ているもののアパレルメーカーの派遣店員にしました。メーカーにしてみれば自社の売り場スペースだけでなく、商品知識を持たせて自社製品の販売に専念させる販売員を確保し、しかも売り場の売れ筋情報をタイムリーに把握することができます。百貨店にしてみれば人件費の削減、毎シーズン変わるファッショントレンドをふまえた商品知識の教育という販売員育成費の削減ができるというwin─winの関係が成立しました。長い目で見ると、ここから百貨店の『場所貸し』といわれる売り方が生まれてきたと思います。
しかし当時は、画期的な方法としてこぞって導入され、さらにナショナルブランド(メーカーが全国的に幅広く好まれる商品を展開するブランド)から、デザイナーブランドやキャラクターブランドへと、よりターゲットを絞り込んだブランドが次々に登場していく中で、売り場はメーカー別からブランド別へとさらに『ハコ』が増えていきました。
高度成長の時代をひたすら拡大路線で進んだ日本経済にも、ファッションビジネスにも幸せな時代でした。
●80年代ファッション成熟期 「DCブランドによる高感度市場へ」
80年代は日本のファッションビジネスにとって、画期的なターニングポイントでした。それはDC(デザイナー&キャラクター)ブランドの登場です。1981年、コムデギャルソンやヨージヤマモトなど日本のデザイナーたちがパリコレに進出し、真っ黒な穴の開いた服をはじめとする斬新なデザインで、ヨーロッパの人々を驚かせ、注目を浴びます。
デザイナーブランドとは、デザイナーが自分の感性と世界観で衣服を表現するブランドで、その顧客はデザイナーの感性に共鳴し、世界観を共有する人々です。一方でアパレルメーカーは、デザイナーという個人ではなく、ブランドにキャラクターという性格を付与し、ブランドの特徴を際立たせ、ある特定の顧客に支持されることを狙ってキャラクターブランドを作ります。1981年にスタートしたサンエー・インターナショナルのピンキー&ダイアンはその第1号と言われています。
両方ともターゲットを絞ることにより、より強く特定の相手にアピールし、つま先から頭のてっぺんまでその世界観で覆いつくします。ファッションは一ブランドによる「トータル・コーディネート」を目ざしました。
これを可能にしたのは、店舗・販売・販促が連動した、かつてない販売システムでした。
コムデギャルソンやヨージヤマモトなどが青山を中心に展開。
①「直営店」(ブランドショップ)を出店し、その内装、外観を含めデザイナーの世界観を表現します。
②「ハウスマヌカン」と呼ばれた販売員に自ブランドの服を着せ、着こなし方を提示する〝動く広告塔〟の役目を果たし、同時にそのブランドの世界を具現化したカリスマとして、消費者の憧れの的にもなります(それまでの百貨店の販売員は制服を着ていました)。
③「コレクション」という広報形式を採用し、東京デザイナーコレクションは発足当時、バイヤーとプレスだけでなく、そのブランドの一定以上の購入者にも招待状を出していました。そのブランドの愛用者には、コレクションに招待されることが、次シーズンの商品情報をいち早く得るのと同時にステータスになっていきます。
こうして、衣料品というモノを売るのではなく、ファッションというコト(付加価値)を売るのだという考えに基づき、大衆から分衆へとマスマーケットはセグメント化されていきました。ライセンスブランドも含め、デザイナー&キャラクターブランドが衣料品以外にも進出し、あらゆるものがブランド化され、消費されていった時代が80年代でした。
●90年代価格破壊と多様化 「セレクトショップとSPAの登場」
90年代はバブル崩壊による激変がファッション界にも及び、ブランド化でひたすら高額化する消費スタイルに揺り戻しが起きます。
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まず1つのブランドで全身をコーディネートするのは「ダサイ」とされ、ブランドに寄りかかるのではなく、着る人の感性でブランドをミックスし、組み合わせ方で着こなしのセンスを競う風潮がファッション雑誌から起こります。しかし一般の消費者にとって、これはかなりハードルが高く、古着から最新流行のブランドまで情報を集めるのは至難の業です。
そこでこの品揃えを代行する「セレクトショップ」が登場、各ショップがハイセンスを保証する仕組みが出来上がります。消費者は「セレクトショップ」の保証のなかで、安心してブランドを取り入れ、またブランドをはずし、着方からコーディネートの方法まで教授されてハイセンスを身につけます。
さらにバブル崩壊が進むと、衣服に金をかけるのはスマートではない、賢い消費者は安くて良い物を見抜くのだという主張のもと、SPA(Speciality store retailerof Private label Apparel)という、訳あって安いショップに人気が集中していきます。日本語では製造小売業と訳されるこの業態は、企画、製造、販売を一社にて行うことにより企画生産販売の時間短縮と効率アップを図ります。原料在庫リスクと製品在庫リスクを負いますが、大量発注・大量生産によりコストダウンを達成し、市場の占有を図ります。
大量販売を狙うためターゲットを広くとり、商品はベーシックという点がデザイナーブランドとは正反対です。代表的なのはアメリカのGAPや日本のユニクロですが、特に1998年からユニクロはフリースブームを引き起こし、日本全国を席巻していきます。その背景にはベルリンの壁の崩壊が象徴するようにグローバル化が推進され、国境を越えて最適化されたサプライチェーンによって、適材適所での商品供給が可能になったことがあります。そして、21世紀に入ると低価格競争は、さらに激化していきます。
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