機関誌『専門店』ハイライト

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■シリーズ 活き活き商店街とまちづくり 51

「こみせ」を活かしたまちづくりを進める
「黒石市・こみせ通り商店街振興組合・津軽こみせ㈱」


NPO法人まちづくり協会
中小企業診断士 三 橋 重 昭


黒石市の歴史と商業
黒石市は青森県のほぼ中央、西に岩木山と津軽平野を控え、東に八甲田連峰を望むところに位置する人口約3万8000人の小都市。弘前市とは弘南鉄道弘南線でJR弘前駅と結ばれ、車では弘前市中心街から約30分のところにある。県庁所在地の青森市とは、東北高速自動車道・黒石ICで結ばれている。

 

10ikiiki_01.JPG黒石市の歴史は、明暦2(1656)年に弘前藩から黒石津軽家として独立したときから始まった。黒石津軽家は、以前から存在した古い町並みがあり、背後に浅瀬石川を控え、自然の要害的な場所に陣屋を構えて町割りを行っている。陣屋の前門は侍町(武家町)で、その周りは町屋(商人・職人町)、そして町の出入口に寺町を配している。


江戸時代、町の中心には弘前と青森(外ケ浜)を結んでいた浜街道が通り、商人町として栄えた。その歴史ある商人町が、現在の中町や前町であり、そこに平成6(1994)年に「こみせ通り商店街振興組合」が設立された。単に、江戸時代の商人町の繁栄が続き、「こみせ通り商店街振興組合」となったわけではない。

 

中町や前町の人の流れが変わったのは、最初は明治前期の道路整備(現在の県道268号線)を行ったときだった。そして、大正元(1912)年には国鉄黒石線が、続いて昭和25(1950)年には弘南鉄道弘南線が開通し、徐々に中心商業地は東側の駅寄りに移っていった。

 (国鉄黒石線は、昭和59〔1984〕年に弘南鉄道に引き継がれたが、平成10〔1998〕年に廃線)

この人の流れの変化は穏やかなものであったが、昭和61(1986)年に国道バイパスが完成したのを機に、郊外部の道路整備は一挙に進んだ。その結果、大型店の郊外出店ラッシュにより、黒石市内の街なかから人の流れが消えていった。


郊外大型店のなかでも、昭和61(1996)年に出店したジャスコ黒石店の影響は大きかった。ジャスコ黒石店出店の翌年、黒石駅近くにあった旧カネ長武田デパート(出店は昭和44〔1969〕年、後のマイカル東北黒石店)は平成9(1997)年に閉店。そのジャスコ黒石店も平成19(2007)年10月に開業したショッピングセンター「アクロスプラザ」などとの競合により、平成20(2008)年4月に閉店している。

黒石の人の流れを歴史的に見ると、江戸時代は徒歩中心の街道筋、明治以降は市街地内の新しい道路沿いや鉄道駅近く、それが1980年代以降になると交通手段は車中心になり、郊外に拡散し、街から人の流れが消えてしまった。

日本最古のアーケード状
の通路「こみせ」
10ikiiki_02.JPG街なかで光が当たったのは、中町にある「高橋家住宅」が、昭和48(1973)年に重要文化財に指定されたことである。「高橋家」は黒石藩御用達商人で米穀をはじめ、味噌、醤油、塩などの製造販売を行っていた家である。中町に居住したのは享保2(1717)年のことで、宝暦13年(1763)に現在の建物を建築している。この建物の道路側には日本最古ともいうべきアーケード状の通路「こみせ」(小見世)がつくられている。


「こみせ」は上越地方に見られる雁がん木ぎ (雪よけのために家々の軒からひさしを長くし、その下を通路としたもの)と異なり、冬になると道路側に板戸と明かり障子を立てて、高齢者にも優しい屋内通路に変わる。また、夏は暑い日差しを遮り、冬は吹雪や積雪から人を守り、軒を連ねていた旅篭や呉服屋、造り酒屋、米屋などの商家にとってはなくてはならないものだった。
また、その向かいの「鳴海家」にも同じような「こみせ」がつくられている。


10ikiiki_03.JPG鳴海家は、もともと近江商人が酒造りを行っていたところを、初代が1806年に買収・創業したもの。「こみせ」のある主家は購入前に建てられているので、約230年が経過している。現在は6代目の鳴海文四郎さんが造り酒屋「鳴海醸造店」を営んでいる。鳴海さんは「こみせ通り商店街振興組合」の理事長を務めている。


江戸時代に形成され、確立した黒石の「こみせ」通りは、最盛期には4800メートルの長さに及んでいたというが、明治に入ってからは時代とともに変容を余儀なくされた(黒石市のホームページより)。
 その要因は、次の五つである。

① 火災で焼失した後、木造のひさし状の構造が類焼を招きやすいという危険性が指摘され、再建されなくなった。
② 鉄道網が充実していくにつれて街道交通が衰え、人々が集まらなくなり自然に消失していった。
③ 第二次大戦の前後には、流通機構が変化して市場に商品が出回らなくなり、閉店せざるを得ない商店が相次いだ。これにより、連続性が確保できなくなって、通りとしての価値が薄れていき、加速度的に消滅していった。
④ 急速な車社会の発達に対応するために、道路の拡幅などが進められるとともに取り壊されていった。
⑤ 「こみせ」部分の土地が、公共の道路か私有地かはっきりしないまま、高度成長期に店舗が「こみせ」側に張り出し、実質的に消失していった(現在は、「こみせ」部分の土地は、私有地として登記されている)。


以上の理由から、「こみせ」は減少していくこととなったが、中町の「こみせ」通りは一部ながら残った。それは、高橋家、鳴海家などが、先祖から受け継いだ資産を守っていこうとする姿勢が強かったからであろう。
また、この地区には長年住み続ける世帯が多く、共同体としての意識が高く、幼いころから当たり前に存在した「こみせ」に対する無意識の愛着なども、「こみせ」を連続した通りとして残すことにつながったと見られている。
 

昭和50(1975)年、日本初の歴史的街なみの面的保存制度である「伝統的建造物群保存地区」が制度化された。文化財保護法によると、「伝統的建造物群」とは"周囲の環境と一体をなして、歴史的風致を形成している伝統的な建造物群で価値の高いもの"という。

「高橋家住宅」が昭和48(1973)年に重要文化財に指定されたこともあって、黒石でも昭和58(1983)年に「伝統的建造物群保存調査報告書」を作成しているが、この時には伝統的建造物群保存制度そのものの理解が不足していて、指定されるには至らなかった。

しかし、同時に行われた黒石市民に対する意識調査の結果、「こみせは共同利用空間である」「こみせは所有者のものであるが、その利用については共同のものである」という市全体の合意が確認できた。

平成62(1987)年度、こみせ通りは建設省の「日本の道百選」に選定された。しかし平成元(1989)年、中町で長年商売を続けてきた商家が倒産して、土地・建物が競売に出されることになり、マンション業者が落札するという話になった。この時に、マンションの建設を阻止すべく、二十数名の市民で7000万円近くの資金を用意して、競売予定日の前日にその土地と建物を取得した。そのリーダーは、黒石青年会議所理事長OBの木下啓一さんだった。

 

10ikiiki_04.JPGその後、購入したその建物で土産物販売などを行う「こみせ駅」を開設した。木下さんたちは、「こみせ駅」を運営する会社として、商工会議所青年部の方々と一緒になって有限会社「商舎」を1994年に設立している。この年に中町商店会と前町商店会が一緒になって、「こみせ通り商店街振興組合」を設立させた。
その後、黒石では商店街の裏地(かぐじ)を利用して「横町広場」を整備し、平成9(1997)年4月にオープン。こみせ通りから「横町かぐじ広場」に向かう理右衛門小路には、高橋家によって平成10(1998)年5月「こみせ長屋」が完成した。

旧中心市街地活性化法で
の取り組み
1998年、今では旧法になった中心市街地活性化法が施行された。黒石市では、官民をあげて中心市街地活性化に取り組んだ。中心市街地活性化法施行と同時に、庁内に関係部課連絡会が設置され、1998年度には「黒石市中心市街地活性化基本計画」を庁議決定している。

 

1999年、黒石TMO構想策定委員会が設置され、木下さんがその委員長に就任した。TMO構想策定委員会では、商業などの活性化事業を推進する組織(TMO=タウンマネジメント機関)としては、事業実施型の第三セクターのまちづくり会社を設立することとした。

10ikiiki_05.JPGまちづくり会社は、㈲商舎をベースにして黒石市が4800万円を出資し、第三セクター津軽こみせ株式会社として設立された。出資者は、商工会議所や金融機関、民間人など110余名、そして代表取締役には木下啓一さんが就任した。
津軽こみせ㈱の事業目的は、重要文化財「高橋家」に代表される、かつての「こみせ」の風景を今に再現し、250年の時の流れを表現できるようなまちづくりを進めようというものだった。
 

津軽こみせ㈱は、認定TMOとして事業計画を策定、その計画のもと平成13(2001)年7月に観光物販と飲食スペース「津軽黒石こみせ駅」をリニューアルオープンし、平成15年(2003)年3月にはリノベーション補助事業により、多目的ホール音蔵「こみせん」、イベント広場「じょんがら広場」を完成させた。これらの総事業費は約1億円、国と県と事業者が3分の1を負担している。

 

「こみせ」が輝き、真の豊か
さが実感できるまちづくり
津軽こみせ㈱は、「津軽黒石こみせ駅」を拠点とするお土産品などの販売、お食事処「こみせ庵」の経営、そして各種イベントを行っている。
黒石市は、津軽じょんがら節の発祥地。店内では毎日津軽三味線の定期演奏会を行っている。また、音蔵「こみせん」では不定期にライブ、講演会、展示会などを開催している。

津軽こみせ㈱の事業展開、文化的価値の検討の結果、平成16年(2004)年3月に「黒石市歴史的景観保存条例」が制定され、翌年2月に黒石市中町伝統的建造物群保存地区に指定、そして平成17(2005)年7月、国によって「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。中町こみせ通り地区の「こみせ」は永続的に守られることになった。

 

北海道・東北地方の商家町で「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されたのは、唯一ここ黒石中町だけである。木下さんは「まちづくりとはコミュニティを育成、維持していくことであり、景観や歴史、文化を保存伝承していくことが、これからのまちづくりの在り方であり、自分たちが担った役割であると思っている」と語っている。
しかしその後、木下社長は平成17(2005)年11月に急逝してしまった。

新たなスタート地点に
立って
平成18(2006)年6月、改正中心市街地活性化法が施行された。それによって、これまで中心市街地事業の補助対象であった認定TMOである「津軽こみせ㈱」は、中心市街地活性化事業の補助対象から外れてしまった。

これまでどおり、中心市街地に対して国の補助を受けるためには、新たに中心市街地活性化基本計画を策定し、内閣総理大臣の認定を受けなければならない。
しかし、農業を主産業とする黒石市の地域経済は厳しく、津軽こみせ㈱にとっても新たに補助を受けて事業を展開する余裕はない。旧法の中心市街地活性化法は地域の創意工夫を重視していたが、新法は国の基本方針が補助採択の基準とされている。経済力の弱い小都市には新法は厳しい。
 

10ikiiki_06.JPGそんななかで、平成19(2007)年、黒石商工会議所副会頭の船水正嗣さんが、津軽こみせ㈱社長に就任した。
船水さんは、「こみせ」を核とする「伝統的建造物群保存地区」の魅力をより一層PRしていくとともに、これまでの事業で減少した資本の回復も図っていくという二つの使命を担っているという。

認定TMO制度がなくなった現在は、まず経営の自立を図っていかなければならない。そのために営業と事務部門の統合などでコストを減らし、黒石商店街協同組合や自らが会長を務める食品衛生協会の事務作業を受託し、収益を上げる方策をとっている。一方、「こみせ」ブランド商品を開発し、観光事業にも力を入れている。
 「こみせ通り」は、なんといっても黒石市のメインストリート。日本三大流し踊りの一つ「黒石よされ」(ほかは阿波踊り・郡上踊り)、東北有数の運行台数を誇る黒石ねぷた祭りのメイン会場にもなっている。

 

ここには、歴史、伝統、文化そして人と人との絆、地域のコミュニティの原点がしっかりと息づいている。一方、地域経済の活性化のためには、もっと若い人たちを呼びたい、そのために音蔵「こみせん」で365日ライブをやることも目標にしたいと語る。
ちょうど、地元出身のロックミュージシャン「ホイドース」の相馬大輔さんとその奥さんが、次に行うライブの準備をしていた。

10ikiiki_07.JPG相馬さんは、15年にわたる東京での音楽活動に終止符を打って、これからは黒石を拠点に音楽活動を行っていくと力強く語ってくれた。また現在、津軽こみせの現場リーダー中田純禎さんも、東京でのサラリーマン生活をやめてここで働くようになった。郷土を愛し想う黒石出身の若者は多い。
 その方々をいかにバックアップしていくか。これは船水社長、鳴海理事長が共通して言われたことだった。

■こみせ通り商店街振興組合
理事長:鳴海文四郎
所在地:〒036-0337 青森県黒石市大字中町1-1
連絡先:0172-52-3321
組合員数:46名
■津軽こみせ株式会社
代表取締役:船水正嗣
所在地:〒036-0337 青森県黒石市大字中町5
連絡先:0172-59-2080